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自動的に出てくる料理マシーン

2019年2月19日「火曜日」更新の日記

2019-02-19の日記のIMAGE
彼らは家族を仲間を観客に仕立てる。拍手がなければやらない役者のようなものである。だが、その彼らをひとつだけ弁護するとすれば、いまの「食」というのは、つくり手がそれくらいアピールしなければ報われない仕組みになってしまっているということだ。それは男の厨房派だけでなく主婦の料理も同じである。独立型のキッチンで育った子どもは、食卓にいたるこのプロセスを目にする機会がほとんどない。火と刃物があるキッチンに子どもが近づくと「危ないからあっちへいってなさい」となる。それは当然で、キッチン専用の空間は子どもの(無意識的な)見学スペースなど考慮に入れていないのだ。すると、そうした子どもにとってはキッチンは自動販売機と同じブラックボックスになってしまう。時間がたてば自動的に出てくる料理マシンである。わたしはかつてある有名な映画監督にこういう話をきいたことがある。彼は昭和ヒトケタ世代である。「わたしにとっての母親像は、豆腐を手のひらにのせて切るその姿に凝縮されている。刃物を手のひらにあてる瞬間感じた痛々しさが忘れられない」それは彼にとって反復されるイメージとなる。そうして母親像は形成されていった。わたしたちが家族の食卓に何かしらの価値を認めるとすれば、背後にこうした営為があるということをどこかで認識しているからである。しかし、手のひらの豆腐を包丁で切る母親の姿がキッチンドアの向こうに隠された家で育った子はどうか?母親が食に傾けるエネルギーを感覚することもなく育っていくのか。それは母親の家族に傾注するエネルギーを知らないまま育つということになりはしないか?しかも、現在の「食」が、台所という場を通らなくても、つまり母親(父親であろうと兄弟であろうとかまわないが)の努力がなくても簡単に供給されるということを、子ども自身すでに知っているのだ。ベントウといえばかっては家でつくり外で食べるものだった。いまは外から買って帰って家で食べるものである。料理の過程の見えない食卓では親の努力、家族を家族たらしめようとする意欲を、子どもが発見することは難しい。子どもたちは電子レンジ調理のレトルト食品だけで「ゴージャス」な食卓を演出することも可能だということを知っている。そういう時代にわたしたちはいる。

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