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仕事か、母の看病か

2020年3月20日「金曜日」更新の日記

2020-03-20の日記のIMAGE
会社をたたむことは容易なことではなかった。たとえ、数人の社員といえども、忍さんを信じ、慕って一生懸命働いてきた社員と、四年間、地道ではあるが積み重ねてきた会社の信用などを考えると、簡単に「やめます」とはいかない。私も三一年間、女手で会社を支えてきており、忍さんの心境は手にとるように理解できる。父がひとり暮らしをしていたころ、東京と名古屋を新幹線で通いながら、父親の世話と会社を両立させてきた私にとっては、とても他人事には思えない。忍さんにとって大きな決断のときだったと思われる。そんなとき思い出したのが、フリーライターのころに取材したことのあるシニアハウスという老人施設のことだった。迷っている時間はない。すぐシニアハウスに電話で問いあわせた。運よく、新町と江坂に一室ずつ空きがあった。広いのは江坂のほうだったが、忍さんの会社との距離を考えると、会社まで歩いて通勤できる大阪市西区にある新町が便利で立地条件もよい。ただ、肝心の費用の点で、忍さんははたと困惑した。会社の運営資金に、家のお金、母親高子さんの貯金までも借り入れており、その上、住んでいるマンションまでも抵当に入れていたからだ。そんなこんなで二の足を踏んでいたとき、取材などで旧知の近山恵子さん(四四歳)が尋ねてきて、いろいろと相談にのってくれた。彼女はシニアハウスの実践者でもある。近山さんは忍さんと同じように、脳梗塞で倒れ、車椅子の生活を余儀なくされた母の介護と仕事を両立させるジレンマを味わっていた。このジレンマを解決するために、近山さんは介護施設のついた共同住宅、いわゆるシニアハウスを発案した。この種のシニアハウスを数多く手がけた生活科学研究所の所長高橋英與氏を知り、高齢の家族を抱える友人二人と、介護サービスを加えたタイプのシニアハウス建設を同研究所に提案した。これは、入居者が設計の段階から意見を出しあう高齢者マンションであり、高齢者の暮らしやすい住居にするとともに、入居者同士の交流をはかり、助けあいを活発にする方式である。生活科学研究所は近山さん自身に、この仕事を完成することを委任した。そうして建ったのが、「シニアハウス新町」である。六年前、完成と同時に、近山さんは東京の仕事を辞め、生活科学研究所の大阪事務所長に転職、同じシニアハウスの六階に移り住んだ。事務所はマンションの二階。近山さんは六階から二階の事務所へ出勤し、母親は一階に設備されたデイケアを一日中受けられるという安心を同時に手に入れることができた。近山さんは入居と同時に、会社が大阪の江坂に建設計画中の新しいシニアハウスの準備にもすぐ、参加した人である。この「シニアハウス江坂」は小西綾さんと女性学の研究家の駒尺喜美さんが生みの親であり、別名を「ウーマンズハウス』という。ここでは、その名の通り、女性が幸せに生きるためのさまざまな活動が盛んに行われている。近山さん母娘はいまは武蔵浦和のシニアハウスに戻ってきた。そして、ライフハウスという、地域と連携した新しいスタイルの事業計画をすすめ、完成させた。

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